2.
PCI発展の過程急性心筋梗塞や狭心症に代表される冠動脈疾患の治療では、冠動脈の流れを回復させるために冠血行再建が決定的に重要です。その方法として冠動脈バイパス手術(CABG)と、カテーテル治療である冠動脈インターベンション(PCI)があります。PCIの発展の過程は再狭窄をいかに克服するかが課題でした。再狭窄とはPCIで治療した冠動脈が再び狭くなることです。バルーンのみで病変を拡張していた時代は、再狭窄率が約50%でした。金属製ステント(BMS)が登場してからは約30%まで減少しましたが、それでも高い再狭窄率でした。再狭窄の要因は、ステント留置後に血管内の細胞が増殖しステントを覆ってしまい内腔が狭小化することです。この新生内膜の増殖抑制を治療ターゲットとして薬剤溶出ステント(DES)が開発されました。当初はステント血栓症などの問題もありましたが、DESの改良が進み再狭窄は劇的に改善されました。現在は、本邦だけでなく世界中でDESを用いたPCIが広く普及しています。「不射之射」皆さんは、「不射之射(ふしゃのしゃ)」という言葉をご存じでしょうか。小生の最も敬愛する作家である中島 敦の作品の『名人伝』に詳しく書かれています。中島 敦(1909~42年)は喘息により33歳という若さで没しています。『山月記』や『李陵』などが代表作ですが、その格調高い芸術性と引き締まった文章が魅力です。「名人伝」のあらすじを紹介します。紀元前3世紀に、中国の都で、天下第一の弓の名人を目指した紀昌(きしょう)という男がいました。伝説の弓の名人である甘蠅老師(かんようろうし)に勝負を挑みに出かけます。そこで、名人に想像を超えた境地を教えられます。弓の名人は、「弓」という道具を使わずに、「無形の弓」によって飛ぶ鳥を射落とすのです。「射之射」とは、弓で矢を射て鳥を撃ち落とすこと、 不射之射とは、矢を射ることなく射るのと同様の結果が得られることです。紀昌は、不射之射を9年かけて会得し都へ帰還します。「弓をとらない弓の名人」となった紀昌は、晩年には「弓」という道具の使い方も、名前すらも忘れてしまうという境地に到達したといいます。野球の川上 哲治氏は「打撃の神様」と言われた強打者で、日本プロ野球史上初の2,000安打を達成しました。全盛期には、ピッチャーの投げたボールが「止まって見えた」と言っていたそうです。このような境地に到達した者を名人と称賛し憧れるのが日本人です。ステントに代わる、薬剤コーティングバルーン(DCB)の登場日本におけるPCIで、注目されているコンセプトがステントレス PCIです。薬剤溶出ステント (DES) を留置するPCIは、冠動脈疾患の治療に革命をもたらし、最も行われている治療法の1つとなっています。しかし、DESは金属性のデバイスであり、その使用により冠動脈内に異物が永続的に留まるという制限があります。これを克服するために登場したのが、薬剤コーティングバルーン(DCB)です。このDCBによる治療は、金属製ステントを使用せず、バルーンに塗布されたパクリタキセルなどの薬剤を血管の壁に到達させて再狭窄を予防するものです。DCBによる、ステントレス PCI のメリットを考えてみましょう。DESを留置した後にはステント血栓症を防ぐため抗血小板薬の2剤併用(DAPT)が必要ですが、抗血小板薬1剤に比べて出血が増加します。高齢の患者では出血性の合併症が問題となります。DCBで治療すれば、抗血小板薬を減弱化することが可能となります。冠動脈CTによる評価法が普及していますが、金属製ステントがあるとノイズとなり冠動脈ステントの内部がよく見えません。PCI術後に何年か経ってから病変が進行し、CABGや2回目のPCIが必要になった場合には、既存の冠動脈ステントが治療の邪魔になる可能性があります。このような利点もありDCBの使用は増加しています。一方で、金属製ステントの効能の1つである、急性冠閉塞の予防効果がDCBでは期待できないことからリスク増加も懸念されます。DCBは、冠動脈内に異物を残さない治療を実現するもので、このコンセプトを、「leave nothing behind」と呼んでいます。欧米や諸外国においてもDCBを用いたステントレス PCIが話題として取り上げられることはありますが、日本ほど注目されている訳ではありません。日本でステントレス PCIへの議論が高まってきているのは、その背景に「不射之射」を尊ぶ東洋的思想があるように思います。ステントを用いずにPCIを完遂することが、あたかも弓矢を用いずに飛ぶ鳥を射落とすが如く捉えられているのです。冠動脈疾患の予防治療が将来さらに進化して、冠血行再建を必要とする患者がゼロとなり、CABGやPCIという道具や手技の名前を忘れてしまうという、「紀昌」の境地までに到達する日を夢みております。